2/17 講演「東海道57宿の諸相~53宿(次)が広く知られているのはなぜか~」(くさつ歴史発見⑤)に参加してきました。
講師は、草津宿街道交流館館長・岩間一水氏。冒頭は「五街道と宿駅制度について」分かりやすく説明がありました。
そして、本題である「東海道は53宿か57宿か」についての考察です。様々な文献、道標に刻まれた道の呼称から、江戸幕府は江戸の日本橋から大坂の高麗橋までの間の57宿と捉えていたようです。
しかし、庶民の捉え方は違っていたようです。庶民にとっては京も三条橋までの間の53宿が東海道と捉えていたようです。
なぜこうした違いが発生したのでしょうか。それは江戸の後期に庶民の間にブームになった旅行があります。この時代、多くの旅のガイドブック「名所絵図」が登場します。
なかでも葛飾北斎の「東海道五十三次」、歌川広重の「五拾三次」の影響は大きく、さらに庶民の旅行への興味関心を盛り上げていきます。
江戸の庶民にとって、ゴールは大坂ではなく憧れの京であったのです。京までの道のりを「名所絵図」として浮世絵師は魅力的に描きます。
体制の考え方と庶民の考え方に違いがあっても、東海道としての重要性は変わらないのですが、53宿と57宿の違いについてはあまりこだわらなかったのでなないでしょうか。
こうしたあいまいさが共存するのが日本らしさなのかもしてません。
https://www.city.kusatsu.shiga.jp/kusatsujuku/koryukan/koryukan20231206.html